2016年01月 | ぷりゅすの休日

2016年01月

2016 墨のむら



僕は 未だ はんなり墨のむら



色んな素敵が からだを広げたり

心をふるわせたり


悲しみが抜けたぶん 少しやつれてみたり

むなしさを憶えるたびに 干からびたり


出会いがあるごとに 大袈裟に にじんでみたり

別れで凹んだ空間を そっと乾かしているんだ



そうしてシリコンみたいな海に浸かって

さみしさを まぎらわせているんだよ

なりわい



花はね その美しく咲く姿を

周囲や僕らに見せて 癒しや安らぎを与えてくれる

何の見返りも無く 一生懸命に咲いて

時に僕らの悲しみも 連れ去ってくれる


それは無償の愛だ


でもね

僕ら 人間もね ほんとうは

悲しみを齧りながら 喜びを吐き出す動物なんだよ




自我!2016


「良い・悪い」「正・邪」「損・得」「優・劣」とか

< 観念 > はね 二極のルールなんだよ


自我っていうやつは これら < 観念 > を基準に行動するんだ

自我が賞賛するのは いつも二極の片側だね


良い 正しい 得する 勝つ 優秀 幸福 美しい・・



それならば 大満足なんだ

もしそれに背くようだったら 

他人はおろか 自分さえも許さない!


< 観念 > はついにボスキャラの << 強迫観念 >> にまで膨張して

自分を追い込むことになる


でもちょっと考えてみよう


この世界にあるものは「すべて相対する二極で1セット」で存在していて

片側だけに寄る振り子がないように

片方の極だけを体験することは 絶対に不可能なんだよ


良いをことを知るには 必ず悪いを体験しなければならないようになっているでしょ?

だから 自我は 最初から不可能なことをやっているってことさ

まぁ 無知っていうか 井の中の蛙っていうか 元々 欠落している考えのかたまりなんだ


つまりね 自我の目的は「幸せ」じゃないんだ!

だってね 自分を裁いたり 自己否定するはずが ないじゃない!


「もし すべての観念がなくなったら 自分は一体何を基準に生きていけば良いんだろう?」

ここでいう自分って言うのは“自我”のことなんだけど


自我の本当の目的は「ルールを守る」こと [君が育てた考えね・・・]

だからルールである < 観念 > をすべて手放すと 自我はもう生きてはいけない

その瞬間に自我を満たす人生は ジ・エンドなのよん


するとね 自我っていう雲がなくなって 本来の青空が顔をのぞかせる

元々雲の上はいつも青空だからさ

本来のあるがままの自分が そこにある

ありのままの自分っていうのは そういうことなんだよ

なにか 都合のいいように勘違いしていないかな? きみも!


よせてはかえす



純粋な欲求に従って行動している人って

苦しみを感じないんだと思うな

そこには他との比較判断がないからね


僕らは 特定の価値観を握る 

まず握るところから始まるんだ


一つの価値観を受け入れると その考え方に基づいた体験が始まって

その中で良い体験による悦びと 悪い体験による苦しみの両方を学びます

この両極を体験しつくすと その学びが終わるんだ


人は良い体験ばかりを求めるから まずプラスの体験をして 

苦しみの体験が最後に残るのが常のようだけど

苦しくて苦しくて どうにもならなくなったとき

「もういいや」って意識がニュートラル(中立)へとシフト(移行)する事によって

その価値観を卒業するらしい



たぶん人生はその繰り返しだと思う



何かを握り そして手放して また違う価値観を握りしめてって・・・


自我ってのは 沢山の思い込み が集まって できた人格だと思う


設定



もうすこし経験を積んだら

もうすこしなれたらた

もうすこしお金がたまったら


こころが穏やかになったら

じぶんのことを好きになれたら

ひとを許せるようになれたら


いつも きみは 動き出すことより 

条件をそろえることに心を砕いている


いつか幸せになろうと思っているから

いつまでたっても幸せになれない


なぜなら

きみにとって

幸せは いつも未来に設定してあるものだから

今は その願いが 常に叶わないってことなんだ