僕は 未だ はんなり墨のむら



色んな素敵が からだを広げたり

心をふるわせたり


悲しみが抜けたぶん 少しやつれてみたり

むなしさを憶えるたびに 干からびたり


出会いがあるごとに 大袈裟に にじんでみたり

別れで凹んだ空間を そっと乾かしているんだ



そうしてシリコンみたいな海に浸かって

さみしさを まぎらわせているんだよ
                                     ありがとね♪








花はね その美しく咲く姿を

周囲や僕らに見せて 癒しや安らぎを与えてくれる

何の見返りも無く 一生懸命に咲いて

時に僕らの悲しみも 連れ去ってくれる


それは無償の愛だ


でもね

僕ら 人間もね ほんとうは

悲しみを齧りながら 喜びを吐き出す動物なんだよ




                                     ありがとね♪







「良い・悪い」「正・邪」「損・得」「優・劣」とか

< 観念 > はね 二極のルールなんだよ


自我っていうやつは これら < 観念 > を基準に行動するんだ

自我が賞賛するのは いつも二極の片側だね


良い 正しい 得する 勝つ 優秀 幸福 美しい・・



それならば 大満足なんだ

もしそれに背くようだったら 

他人はおろか 自分さえも許さない!


< 観念 > はついにボスキャラの << 強迫観念 >> にまで膨張して

自分を追い込むことになる


でもちょっと考えてみよう


この世界にあるものは「すべて相対する二極で1セット」で存在していて

片側だけに寄る振り子がないように

片方の極だけを体験することは 絶対に不可能なんだよ


良いをことを知るには 必ず悪いを体験しなければならないようになっているでしょ?

だから 自我は 最初から不可能なことをやっているってことさ

まぁ 無知っていうか 井の中の蛙っていうか 元々 欠落している考えのかたまりなんだ


つまりね 自我の目的は「幸せ」じゃないんだ!

だってね 自分を裁いたり 自己否定するはずが ないじゃない!


「もし すべての観念がなくなったら 自分は一体何を基準に生きていけば良いんだろう?」

ここでいう自分って言うのは“自我”のことなんだけど


自我の本当の目的は「ルールを守る」こと [君が育てた考えね・・・]

だからルールである < 観念 > をすべて手放すと 自我はもう生きてはいけない

その瞬間に自我を満たす人生は ジ・エンドなのよん


するとね 自我っていう雲がなくなって 本来の青空が顔をのぞかせる

元々雲の上はいつも青空だからさ

本来のあるがままの自分が そこにある

ありのままの自分っていうのは そういうことなんだよ

なにか 都合のいいように勘違いしていないかな? きみも!


                                     ありがとね♪








純粋な欲求に従って行動している人って

苦しみを感じないんだと思うな

そこには他との比較判断がないからね


僕らは 特定の価値観を握る 

まず握るところから始まるんだ


一つの価値観を受け入れると その考え方に基づいた体験が始まって

その中で良い体験による悦びと 悪い体験による苦しみの両方を学びます

この両極を体験しつくすと その学びが終わるんだ


人は良い体験ばかりを求めるから まずプラスの体験をして 

苦しみの体験が最後に残るのが常のようだけど

苦しくて苦しくて どうにもならなくなったとき

「もういいや」って意識がニュートラル(中立)へとシフト(移行)する事によって

その価値観を卒業するらしい



たぶん人生はその繰り返しだと思う



何かを握り そして手放して また違う価値観を握りしめてって・・・


自我ってのは 沢山の思い込み が集まって できた人格だと思う


                                     ありがとね♪








もうすこし経験を積んだら

もうすこしなれたらた

もうすこしお金がたまったら


こころが穏やかになったら

じぶんのことを好きになれたら

ひとを許せるようになれたら


いつも きみは 動き出すことより 

条件をそろえることに心を砕いている


いつか幸せになろうと思っているから

いつまでたっても幸せになれない


なぜなら

きみにとって

幸せは いつも未来に設定してあるものだから

今は その願いが 常に叶わないってことなんだ


                                     ありがとね♪